2008 年 2 月 28日 - アメリカ発
日本の品質管理を育てたジュラン博士が103歳でお亡くなりになりました。日本企業はジュラン博士に助けられ、そして日本人はジュラン博士を育てた。日本人は自信を持つべきと思うがいかがだろうか。以下を読んでください。
ジュランは、国民的な品質改革が既に進められていた1954年に初めて日本を訪れた。他方、デミング博士は、1947年と1950年にすでに日本を訪ねていた。彼は、技術者の大きなグループに向けて統計的工程管理の講演を行い、やがては経営者に対しても講演をするようになった。このようにデミング博士はジュランより以前に日本の品質管理の基礎をすでに築いていた。しかし、デミング博士のやや理論的な哲学は、日本が求めていた技術革新を達成するのに手を添えることはできなかった。ジュランはより実践的なメッセージを送り、数年にわたる実地訓練によって数多くの企業でプロセスを精巧に組み上げ、製造面での業績を向上されていた。このようにジュランは素晴らしい結果を見せてくれた。
「1954年にジュラン博士ははじめて日本を訪れた時に一般的な管理職に対して品質管理を一つの手法として紹介していたが、これで日本の経営者トップに希望の光を与えた。」と浜中純一氏(JUSEの社長およびCEO)はジュラン博士の逝去にあたっての手紙に述べている。「ジュラン博士は、日本品質管理協会にとって本当に恩師だった。そして、彼の日本に対する途方もない貢献の結果として、外国人には最高の瑞宝章(金銀の星型の勲章)が日本の天皇から贈られた。」
ジュランは、数年にわたってしばしば日本を訪れている。お終いごろには、日本人が彼から教わったと同じほど多くのことを彼に教えた。「彼が日本から学んだのは、高い品質とは単純さであることだ。」とジュラン研究所の社長、Joseph A. De. Feo氏は語る。「もしモノを単純にすれば、使いやすくなる。ちょっとそれを考えてください。少ない部品、少ない故障、すべてが少なくなる。それに、品質管理ハンドブックの初めのいくつかの版では、ジュランは品質改善と品質管理のことを述べてはいるが、品質計画とかあるいは設計は言及されていないことに気が付かれるでしょう。”私は第三の部があることが判った”と彼が言った1986年までそれはなかったのです。この第三の部は、今ではジュランの三元法式で知られているものに完成されている。改善のアイデアを設計に組み入れながら日本人は物事を始めていることをジュランは見て取った。そこで、このすべてのプロセスを概念化させた。今日では設計のシックスシグマに見立てたものと同じだ。」

このほかに日本人の創案の中からジュランが取り入れたのは、クオリティサークルである。1966年の訪問時に、彼が発見したのは、管理職ではなく日本人の作業員が品質改善策を見つけ実行する小さなグループを作っていることだった。これらのサークルで生まれてきた問題の救済内容は驚くべきものだった。ジュランは、講演や文献でこのプロセスをほめたたえた。Donald L. Dewar氏、航空機メーカーの社員で、のちにQCI International の創設者、はジュランのクオリティサークルへの個人的な入れ込みに夢中にさせられた。
「1973年、私は、カルフォルニア州のロッキード工場で品質管理サークルを実践する可能性を検討する責任を持つことになった。」とDewar氏は思い出を語る。「一つのだけ例外があるが、クオリティサークルの文献をあさっていてわかったことはまったく何もないことだった。すべて日本語で書かれていた。その一つの例外が私たちのグループを興奮させた。その理由の一つは、英語で書かれていたから。二つ目は、Joseph M.Juran以外の誰もクオリティサークルのことを書いていないことがわかったからだ。この論文で判ったことは、日本で行われていたクオリティサークルの効果にジュランが驚嘆していることだった。そして、実地調査のために私たち全員6名が日本に旅行できるように経営者トップに要求したらどうかと彼は忠告した。私たちは、そのとおり要求し、そして待ち望んだグリーンライトを受けとった。私たちの仲間全員はグリーンライトが照らされると自信を持っていた。なぜなら、私たちのグループの調査はジュラン博士の偉業の中から指導を得ていたと言うことを示すことができるからだった。
引用先:「小さな人、大きな影」と題したWike Richmanの記事より、ジュラン博士の日本でのかかわりを示す部分のみ引用した。